昭和42年9月19日 朝の御理解
末永静行(№42-085-B-3)
神様が私たちにおかげを下さろうとする、そういう働きというものを私共が頂き止める、それには、私共がどういう状態にならなければならないかと、神様が私共におかげを頂かせ下さろうとする働きが特別にあります。特別にそういう働きが始まるのですから、その働きを私共がそれをキャッチする、頂き留めれるための心の状態とはどういうような状態かと。
昨日の、その、御理解に舞台と観客の席との融和を図るために様々な演出がなされる、様々な工夫を芸能人の人たちがすると言ったような事を話ましたですね、舞台の方と、観客席のお客さんとの、いわゆる、一緒に楽しいムードを作るために、わざわざ客席のほうへ、歌なら歌、歌い手がですね、下りて来て、で皆さん一緒に歌いましょううとか、さぁー手を打って下さいと言ったような働きかけをする、そこに何ともいえん雰囲気というものが生まれてくるといったような御理解を頂きましたですね。
昨日、私ちょっとテレビを見ておりましたらやっぱり同じような画面があっておりました、なんという歌手か知りませんけれども、男の歌手がマイクを持って客席のほうへ下りてきて、さぁー皆さん一緒に歌いましょうと言ってるんですね、ですから、その難しいう歌をいうてもみんなが知らない人が多いですからね、ですから、子供でも年寄りでも、若いものでもみんな歌えれるような歌を選んで、それではみなさん一緒に赤トンボを歌いましょうというて、その、赤トンボという唱歌でございますね。ちょうど子供達が歌います歌です。赤トンボの歌を歌いながら、その、お客さん全部と一緒に歌っておると言ったような場面ございましたがです、そん時ふっと考えましたでですよね、ははぁー天地の親神様が私どものにおかげを下さろうとする働きかけ、みんなと一緒になろうと思うて下さる、いわゆる、信心一体、神と人とが一つになる、御神米なんか頂いて、どこどこさすりながらこうしてまいりますと、神様はいつもついておって下さるように、心は安心を覚えます。というようにですね、あれなんかは御神米を下げて下さるといったような事なんかはだからそれだと思うんですね。神様は私どもと一体になろうとしておるそういう状態にならないとおかげが受けられんのです。いつも祈って守って下さるんだから、いつも神様は見守って下さるんだから、いつも神様が聞いておって下さるんだからという、私共は気持ちにならせて頂かなければおかげ、どういうおかげを下さろうとする働きかけが始まっても、それをこちらが知らん顔をしとったんではやはりそういう雰囲気は生まれてこないのです。ね。
そこで、私は思うたんです、ははぁー誰でもが覚えようと思えや覚えられる、誰でもが知っておる、常識としてでも知っておるというような、例えば、みんなが歌えれるような歌をというような、そういう働きがあるということですね。ですけれどもですよ、なら、その、例えば昨日のそのことじゃないですけれども、なら、赤トンボなら赤トンボという見やすい誰でも歌えれるような歌でも知らなかったらそういう雰囲気は生まれて来ない、そうでしょうが、さぁー皆さん一緒に赤トンボを歌いましょうというても、神様が客席のほうへ下りて下さっても、それを知らなかったらやはり聞くだけしか聞けんのです、あの歌はいい歌だなと聞くだけ、自分も一緒に楽しめん、自分も一緒に有り難いと思える事ができんという事でしょう、そこに、私は、やはり、勉強をしなければならないという事と同時に、これは常識なんです、信心はなくてもです、ね、信心は例えばなくても人間としての常識的な私は事はお互いが知っておかなければならないなぁ、それだということを思いこんどかなければならないなということです。
人間の幸せの条件というのはです、まず、根性を行う事です、根性のある人はですね、どんなに信心しても幸せになれません、また信心はなくてもその人は一生浮かばれません、ね、それは一つの最近は根性という言葉が良く使いますけれども、例えば、良い意味での根性は持たなければなりませんね、こうして朝参りでもなさると、いうなら、やはり一つの根性がなからなきゃできませんもんね、はー寝むたかけんで、また後からゆっくり参ろうと言ったような事では、そういう意味合いでの根性はですね、お参りをするというのは眠かろうどうしようか、そこをやり抜かせて頂こうという根性は必要ですけれども、いわば、あの人は本当に汚い根性をもっておるなと、あの人はなかなか根性もん、そういう意味での根性が悪くてはおかげは受けられない、幸せになれませんです。人の親切を親切おして受ける事が出来ない。今日の喜びを自分の喜びとする事が出来ない。
親切にしよってもむこうに押し返そうと、人が喜びよると腹が立つ、そういう根性ではおかにげならん、隣が蔵建てるとこっちは腹が立てると言ったような根性ではいかんのです。ところが、はたして私どもにそういう根性がないかというと、もう驚くばかりに私どもの心の底にあるのです、ね、隣の蔵を立てるとこっちも腹を立てるというようにです、何とはなしに人が幸せになっていくことがいやだといったような、そういう根性では本当におかげを受けられません。
人が喜んでおるなら一緒に喜んであげれるような心、いわゆる、神心です、ね、そういう神心がいよいよ強くなって行く稽古を信心させて頂くものはさせて頂くんですよね、そういう神様と一緒に融和する心、いわゆる、神様と私共の心が一つになるというのは、神様の心にも似たような心がです、神心がだんだん育っていくということ、ここには一つの水と油は一緒になれません、ね、神様はそんな汚い根性はもっておりません、ですから、私共が汚い根性があるとするならです、それは水と油のような一緒に溶け合う事ができんのです、ね、喜びの強い人、親切の強い人、真面目な人、ね、仕事に忠実な人、そういうようなです、人であって、はじめて私はいよいよおかげの受けられる心の状態が、それがいよいよ磨かれる、それが、いよいよ改まっていけれるから、おかげがいよいよ頂かれる事になるわけでございます。
神様が私共と一緒になって下さろうと、それで見やすいところから、これならばしっとるじゃろうと思うて、みなさん赤トンボを一緒に歌いましょうというても、その赤トンボの歌すら知らなかったら、そこんところの意味がわかることも、そういう良い雰囲気を作ることもできないわけです。
だから、これは信心があってもなかっても、常識として人間の幸せになっていく条件はお金でもなからなければ物でもない、それは条件にないことはありません、けれども、それだけで人間が幸せになるということはないのです、どんなに金があっても、どんなに立派なお家に住んでも、どんなに健康であっても、幸せになる一つの条件でありましてもそれで幸せになれるということはありません、人によってはお金がなくても、家がなくても、貧しくても、健康は隣の健康ではなくてでもです、私共が心の状態がそういう有り難い状態であればその人は幸せだということがいえます、そいういう心の状態に嫌が上にでも神様がおかげを下さろうとする次の働きがけが始まる、そこに信心が必要であるという事になってくるんですよ。
昨日、久留米の笠さんが自動車の修繕をなさるのがお仕事なんですよ、非常にまじめな、実意丁寧な方です、毎日参ってみえます、この方はもう大変妙な病気がございましてね、人に会うということが恐怖を感じるといったような病気でした、もう自分一人じいっとしとかにゃならんといったようなタイプの方です、たくさんの人がおるところには出られないといったような不思議な病気を持っておられたんです、それが、お参りをされるようになってもうかれこれ十年でもなるなりますでしょうか、毎日日参があります、もう、ここでご信心をされる方でほとんどが自動車をもっておる人達が修繕の笠さん、もう実に実意丁寧、仕事が上手、しかも忠実、しかもどこよりも安くしてもらえるのですから、人が集まりますよね、別に看板をあげてこう、立派なお店を持っておるわけでもないのですけれども、尋ねも留めして皆が行くわけなんです。
その方が昨日、お参りしてみえてから、こういうことをいっておられます、先生、私が自動車の運転を覚えてさせて頂くようになりまして丸二十年間になります、その二十年間の間にまだ一回も事故を起こした事がございません、昨日はその調査がございまして、何か今度表彰を受けるらしいんですよ、その調査があってから、昨日、こうこうでしたと話しておられる、自動車の運転をるようになって二十年間無事故だったと、それにはどういうようなコツがいるですかと私は聞きました。
信心されるようになってから十年余り、信心しなさらない前、やっぱ十年間の間は乗ってあるけれども、やはりおかげを受けておられるわけですね、事故が全然ない、事故を起こしたことがない、けれども、これは、自分がどんなに注意しておりましても、横からやって来る場合もございますけれども、ある程度は、だから、お互いが用心させてもらう、注意をしっかり払わせてもらうということになればですね、その災難がよけられるということが分かりますですね。
昨日の新聞に載ってましたでしたね、福岡通りですよ九州道ですから、事故車が千人を超えたというあんまり有り難くない新聞記事が大きく出ておりました。死人と千人突破したと、有り難い事が突破するなら良いけれども、そういう事故死といったようなことがです、次々とあるというのはやっぱりそれはどうにも避けられないような場合もございましょうけれども、いかに、不注意であるか、いかに心がその事に対して散漫であるかという事を感じます。
中に注意するべきことはですね、その中の三割が子供と年よりであるということです、ね、いわゆる、子供は、いわゆる、注意する力がないんですよね、年寄りはなんとはなしにぼとぼとしておる訳だけなんです、その三割であるということから見ても、いかに私共がですね、用心さえすればある程度のことは避けられるということが分かります。
そういうように二十年間も無事故で表彰が受けられるというように、なるには、笠さんどういうようなコツ合いというものがありますかというような意味の事に対してです、笠さんがこう答えられております、先生、私は人にご迷惑をかけてはならない、これをいつも思うておりますと、ね、自分だけを中心、自分さえよかろうと、自分さえ早く向こうへつきゃいい、そのために人に迷惑をかけるような事があってはならない、これは、もう、信心のない、昔からその事を考えております。
もし、正面衝突でもするといったような、向こうからやってくるなら、私のほうが田んぼのほうに飛びこもうという気持ちでおりますとこう言われる、そして、向こうには怪我も少ない、被害も少ないと言う訳なんです、人に迷惑をかけてはならない、もうこれが私の、いわゆる、運転をしていくおかげを頂いてきたというそれがあるならばです、それを私はモットーにしておるという事がこうしたおかげを頂いておる事でしょうという意味の事を話されておりましたがです、ね、私は今日みなさんに申しております、神様と私共が融和する、神様と一つになれれる一つの要素の中にです、こういう心の状態はもう必ずおかげは受けられますですね。人の迷惑なんか考えない、ね、バスに乗るのでもなんでも、もうとにかく前から乗っておるものをしに抜けしてから自分が前に行こうというような、これではおかげは受けられんのですよ、もう、あん奴ばかりはどうしてあげんじゃろうかと、例えば思うでしょう、その面だけでもそ人はおかげをうけられません、あの人は冷たい人だなあと人から思われる事でもおかげは受けられません、あの人はなかなか明るい人だなと、あの人は親切な人だなと、実に仕事に忠実な人だなと、そういう良い思いを思われるだけでもです、これは信心がなくても幸せになっていけれる要素をその人は持っておるという事が言えます。
まして、信心をさせてもらっておかげを頂いていこうのであるから、また、神様が私共と一緒におかげを頂いていこう、一緒に有り難いおかげを頂こうというです、なら、下りてきて下さって、さぁー赤トンボを歌いましょうと、いうて下さるような見やすいところから、神様の方が私どもの方へ下りて下さっても、その赤トンボのような見やすい歌でも知らなかったら一緒になる事ができないでしょうが。
例えば人に迷惑をかけちゃならないと言ったような、もうごく、これは常識的なことなんです、ね、それかというて、もう、私は人に迷惑をかけた夫婦は好かんと、というて非常に意地を出す人があります、そういう意味じゃないないですね、なぜって、迷惑をかけられてから大変喜ぶ人がありますから。
例えばお世話をして喜ぶ人がありますから、そういう場合は素直に受れる、迷惑であっても相手が喜ぶると言ったようなものじゃなければいけんのです、けれどもみすみす、こういうことではこの人が困られると言ったようなことをです平気です、いわゆる、自分中心主義、我がさえよかよかというようなです、根性が私共の心の中にあったんでは神様と一緒に融和していくというような雰囲気は生まれてまいりません。
私共がです、人にどのぐらい迷惑をかけておるようなことがあるだろうかと、いや、あるならば、こういうことは一切今から改めていかなければならないというごくごく、これは当り前なことなのですけれども、それが平気でなされておるというようなこと、ね。
人が困るような迷惑をかけた、あーならないというようなそれでもっとうがです、二十年間無事故でおかげを頂いてこられたという元になっておるとするならです、ほんとにおろそかにできないことが分かります。ね。
どうでしょうか皆さん、それは汽車に乗るであろうが、バスに乗るであろうが今言うように、人の迷惑なんてどうでもよか、もう押し抜けちからで文句いうような根性はですね、それが、たったそれだけのことのようですけれども、これが段々段々大きな問題になってまいりますとですね、それは大変な罪悪になります、それこそ、人の茶碗でも叩き落としてからでも自分が食べらればいいといったようなあさましい事にもなりかねないのですよ。
私共の心の中にそういう信心をさせて頂く者にはあってはならないはずの心が私共の心の中にある、それをよく検討して、よく自分の心の中を調べてみて、そういう…。
(テープが途中切れになっておる)